院長のコラム | 2011年7月

“ドクトル・イトウの地球の果てまで“ 世界60ヶ国以上を訪れた、院長のちょっと変わった見聞録

第18回 夏のワルシャワ(ポーランド):バラとショパン

 前回から少し間が開いてしまった。
舞台を一旦ポーランドに戻して、ワルシャワの夏の風景を紹介したい。
東ヨーロッパといえども夏は結構暑い。エアコンが入っていないところも多いので、過ごしにくい時期ではある。ただし湿度は低いので、木陰にはいると非常に気持ちがよい。
 この時期は日が長く、午後9時近くまで日本の夕方のように明るい。平日午後5時に仕事を終えた人が、それからマウンテンバイクを持って余暇を楽しみに行くなんてことも十分に可能なのだ。
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 ワルシャワの四季を追いかけて、写真を撮り続けたワジェンキ公園。夏はいっそう緑が濃くなる。
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 日本大使館近くの入り口から入って一番奥に、ショパン像のある広場がある。この時期は見事に赤いバラが咲き乱れる。よく手入れされていてこれは素晴らしい。
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 ワルシャワ市民の憩いの場となる。こういったところに経済とは違った文化の豊かさを感じる。
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 夏の時期、週末にここで屋外ピアノコンサートが開かれる。もちろん無料で聞くことが出来る。
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 バラに囲まれながら、ショパン像の下で奏でる演奏は、クラシック音痴の私でも何か感じるものがあった。屋外の自由な雰囲気のコンサートではあるが、聴衆のマナーも大したものであった。携帯電話がなるなんて事はなかったし、ごそごそ動き回るような人も少ない。皆、音楽の楽しみ方を解っているという感じであった。ここで演奏できることは演奏される方々にとっても名誉なことなんだと思う。毎年、この演奏者の中に日本人の方が選ばれていることを名誉に思う。
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 次は自分が4年間住んでいた、ワルシャワの南にあるコンスタンチンという郊外の街を紹介する。ワルシャワの中心部から車で30分程なのだが、緑が多く、どことなく空気がキレイな感じのする地域で、以前は保養所やサナトリウムとして有名な場所だったそうだ。子供達の学校がこの地域にあったのでこの場所を選んだのだが、今から思い返しても本当に良いところだった。
 当時はまだマウイ・フィアット(小さなフィアット)と呼ばれる、共産主義時代の車もよく走っていた。どことなくルパン三世の車に似ている。
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 犬の散歩がてらに家の近くを散策すると、すぐにこのような風景に出会う。
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 池にはカモや水鳥が泳いでいる。冬には白鳥がたくさん飛んでくる。
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 公園の中に細かい霧のようなものが舞う奇妙な建物がある。入場料を払って中にはいると。
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 お寺や神社の線香の煙ではない。ミスト状の水が噴き出しており、それがあたりを覆っている。
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 周囲には乾燥させた薬草?のようなものが積まれ、その中を地下水が濾過されるようにしたたり落ちており、それを霧状に噴霧しているのだと思う。マイナスイオン満開で、何か健康になったような気分になれる。
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 この地がサナトリウムとしても有名なことからも、こういったことが健康によい、特に呼吸器の病気に良いと考えられていたのだと思う。

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第19回 いざ カブールへ1(アフガニスタン):戦禍の街1

 ここから何回かにわたって、アフガニスタンの首都、カブールの街並みを紹介する。テロなどのニュースでよく出てくる地名ではあるが、観光で行けるような場所ではないので、実際の街の風景はご存じない方がほとんどであろう。
 2003年3月、ちょうどイラク戦争がはじまった頃、自分は出張でカブールに1ヶ月滞在していた。当時のカブールには、国連など国際機関、NGOなどを通じて100名以上の日本人がアフガニスタン支援のために滞在していた。現地の衛生環境は劣悪で、まともな医療機関などなく、彼らの医療支援を行うことが出張の主な目的であった。
 ご存じの通りアフガニスタンはイスラム教国で、当時はタリバンというイスラム過激派が息を吹き返していた頃でもあったので、街中でパチパチ写真を撮れる状況では到底なく、ほとんどが車内からや隠し撮りに近い撮影なので、お見苦しい写真が多いと思うがご容赦願いたい。
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 いったいどうやって行くの?とよく聞かれるが、当時はドバイとパキスタンのイスラマバードから国連が定期便を飛ばしていた。
自分はワルシャワからフランクフルト経由でドバイに入り、そこから国連機でアフガニスタンの首都カブールへたどり着いた。写真はカブール到着寸前の様子、標高の高そうな山々の中を着陸していった。
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 これが空港?と頭をかしげたくなるような殺風景な空港で、アリアナ航空というアフガニスタンの航空会社の飛行機が駐機していた。もちろん初めて見たマーク。空港ターミナルも老朽化著しく、荷物のターンテーブルが錆び付いていて動かない。荷物の出口に自分から潜り込んで、自分のスーツケースを引っ張り出した。反射的にこういった行動ができる自分に苦笑い、アフリカでのいろんな経験が生きている。
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 高台からカブール市街を見渡した様子。カブールは標高1800mの盆地で、周囲を高い山々に囲まれている。
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 街は緑が少なく茶色の世界。高い建物もほとんどない。街の様子はスーダンのハルツームにどこか似ている。
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 当時のカブールは治安が悪く、個人での移動は禁止されていて、出張期間は合宿生活。職場近くの一軒家を借り切って一部屋ずつ割り当てられ、トイレ、シャワーは共同であった。これが宿舎の窓から外を眺めた様子。
 到着したその夜、時差ぼけで早くから眠っていた私は、突然のバコーン!!という爆音で飛び起きた。部屋の窓がビリビリいうような爆音だ。近くでロケット弾が爆発したらしい。廊下に飛び出ても他の部屋の住人は全く反応をしない、そんなことには皆慣れてしまっているのだ。マジで恐ろしいところに来てしまったと、後悔してももう遅い。いきなりの強烈な洗礼であった。
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 朝の通勤ラッシュの様子。かなり歴史物の日本車が現役で走っていた。
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 職場近くの広場でサッカーを楽しむ人たち。周囲の山々が本当に美しい。
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 出張中の宿舎は合宿生活、食事も皆で協力しての自炊であった。病人が出なければ暇な自分は、いつも買い出し係。このオヤジの八百屋には大変お世話になった。
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 いつもキロ単位でニラやキャベツを買っていた。色とりどりの野菜が整然と並べられてあり、周囲が埃っぽい茶色の世界なので、この八百屋の原色が非常に新鮮であった。
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 街にはおんぼろ車と共にロバに引かれた荷車が走っていた。
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 カブールの女性は皆このブルカという水色の衣装を着ており、外からはどんな人かはわからない。イスラムの世界では、女性は男性を惑わすという考え方のようで、外出するときにはこれを着て身体の線や顔を隠す必要があるというもの。こういった宗教的な意味と女性を誘拐などから守るという意味があるという。目の部分だけ網のようになっていて、外が見れるようになっている。
サウジアラビアのリヤドでも女性はアバヤといわれる黒装束で身を隠していたが、女性にとっては何とも大変だ。
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 このブルカのおかげでアフガニスタン滞在中に職場以外でアフガニスタン女性の顔を見ることはほとんどなかったし、写真を撮ることもできなかった。ブルカを着ていると、年寄りなのか若いのか年齢すらもわからない。
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 ここはチキンストリートという、カブールで唯一の土産物を買える通りだ。買い物好きの私は滞在中によく通った。
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 絨毯や骨董品(これが非常に価値のあるものらしい)、それからアフガニスタン特産のラピスラズリーなどが売られていた。
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 この危険な街に観光客など来るわけもなく、客の多くは治安維持のために駐留しているヨーロッパの軍人たちであった。
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 無造作に絨毯が並べられているが、結構良い物もあるようだ。
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 中に入ると、ひげ面のおじさんが気さくに次から次へと絨毯を広げて見せてくれる。
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 アフガニスタンの人は皆気むずかしそうな顔をしているが、話し好きのいい人が多い。
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 日本でもパワーストーンで有名なラピスラズリーだが、漢字では瑠璃(るり)と書く。高松塚古墳の壁画に使われている青はこの瑠璃なのだそうだ。アフガニスタンに来て瑠璃色の意味がわかった。ちなみにこのラピスラズリーはアフガニスタンとチリが原産国。ペルーに在勤中、チリには仕事でよく行ったが、ラピスラズリーの質、青の濃さではアフガニスタン産に軍配が上がる。青が深く濃く、白い不純物の少ない物が上物なのだ。
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 自分がカブール滞在中に開店したレストランを一つ紹介する。イラン料理レストランでなかなか美味しかった。外国人向けのこういった店も少しずつ増えてきているようであった。
次回はカブールの厳しい現状を紹介する。

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第20回 いざ カブールへ2(アフガニスタン):戦禍の街2

 世界で危険な国は?というと、イラクやアフガニスタンと答える人が多いと思う。どちらの国もイスラム過激派が活動し、連日自爆テロなどのニュースが報道され、治安が悪い国であることには違いないのだが、この2つの国の背景は根本的に異なる。
 イラクは産油国で豊かな国、サダム・フセイン政権が崩壊するまでは繁栄していた国で、現在はテロで混乱はしているが、社会インフラは整った国だ。一方のアフガニスタンは元々貧しい内陸国で、数十年に及ぶ内戦で国土は疲弊している。壊れた上から潰されているといった感じだ。インフラ自体が全くないと言って過言ではない。
 自分もいろんな国を見てきたが、事務所の机上に電話機のない国はアフガニスタンが始めてであった。つまり首都のカブールでさえ公衆電話回線そのものが整備されていないのだ(2003年当時)。手っ取り早く通信網を作るために、先に携帯電話が拡がったのだが、これが本当に使えず、大事なときには繋がらない。カブール市内にある事務所から同じ市内にある病院へ緊急時に連絡するのに、馬鹿高い衛星通信を使用せざるを得ない状況であった。
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 街から少し郊外に出るとこういった風景が普通になってくる。
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 破壊された建物がそのまま放置されている。
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 いつ破壊されたものなのだろうか、
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 廃墟にテントを張って店を出している。
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 恐らくかなり以前に破壊されたものだと思うが、それを建て替え、復旧するというような光景はあまり見ることが出来なかったし、何せそのままなのである。街が破壊された時のまま、時間が止まっているのである。こんな光景ははじめてだ。
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 これは映画館であった建物。以前はこういった娯楽を楽しむこともできたのであろう。
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 ぐっしゃりと壊れてしまっているが、
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 ここも廃墟を利用して自転車屋になっている。何ともたくましい生活力だ。
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  同じように、ボスニア紛争の戦火に見舞われたボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボという街を見た。街のあちこちに戦火の傷跡が残っており、オリンピック会場は墓場となり、建物の壁には銃弾の跡を修復した跡があちこちで見られたが、街は着実に復興していた。それに比べこの街は止まっている。
(サラエボについては改めて紹介する。)
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 少し遠乗りをすると、このような雄大な景色を見ることができる。
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 ところが、あたりには危険な場所が未だにいっぱい残っている。写真の赤い印は"ドクロマーク"。つまり一歩先は地雷原なのだ。
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 使用されなくたった戦車も野ざらしに放置されたままだ。
政情不安と治安の悪さがこの国を国際社会の支援から遠ざけている。

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